昭和四十五年三月五日 夜の御理解
その事を解り、そのことを信じ、ということは、そのことということは、天地の真と言うこと。天地が、いかに真の働きをなして下さるか、天地ほど真のものはない。まあ、それを実意というてもよい。天地ほど実意なものはない。だから、そのことを信ずるところから、金光様のご信心が本当の信心になってくるのです。天地の働きほど実意なものはない。また、それを真という。真とは、そのことなんです。
ただ、そのことをわからなければ、そのことがわかるところから、金光さまのご信心が始められる。本当の信心が始められる。だから、そのことをわかったから、そのことを行じていっていること。それが、私どもが真になれる、実意になれるというのはそのことなんです。
きょうは、私、お風呂のなかでその事を、急に頂いて。お風呂のなかで、久富先生と二人でしたから、話さして頂いたんですけれども、本当にこの、地球上の人類の全てがね。天地の真をまず知らなければならない。天地がこのように実意であることを、知らなければならない。そして、その真を、実意を、私どもの人間の世界に、広めていかなければならない。
それにはね。それには、私どものように、こうして縁を頂いた者が、まずいうなら、お道の信奉者が、まずいうなら、合楽の信奉者が、そのことを身をもってあらわしていく。そして、そのことがこのような、限りのない無尽蔵の、いわゆる神様が、おかげを受けてほしいと思われるおかげを、私どもが受けさせて頂く事実をね。いわゆる実証してね、その、すべての人類にそれを、教え、または、導いていかなければならない。まず、私が頂かねばならない。そういうことなんです。
ですから、そこんところをね。本当に、わからせてもらわんと、今年、私が言っておる「和賀心時代」ということも、それです。そこが、やっぱり根本なんです。天地がこのように真でおありになる。天地がこのように実意であるということ。そのことが、わかる。そのことを、私どもがいうなら、自分たちの生活の上にも、真と実意をあらわしていこうという、それがお道の信心なんです。
そこから、私どもが、限りなく助けられていく、または、幸福になっていけれる、道が開けていく。それをもって、実証していく、ね、そこんところを、自分の身で、証をたてて、それが人に伝えられていくという、ね。どうでも、そのために根本的なところに着眼をして、私どもが助けられていかねばならない。
私、今この、読ませていただいておるんですけれども、教祖さまの、おっしゃっておられることの中に、こういうことがありますですね。 「手をふると、のりくらと、神が大切なものは、蔵にいれるというが、のりくらというは、神がからだに入って、神にとるのじゃ。手のいさむ、のりくら、といわれるから、手をくみいれば、ふるわず。金光さまは、としがきをなさるにも、ふるいたりと。」 ・・・ですね。ちょっと、意味が、まあ、むつかしいですけど、まあ、簡単にこれを、説明いたしますとですね。
「のりくら」ということはね。「くら」ということはね。「の・り・く・ら」と書いてありますけれども、大切なものは、蔵にいれようがということ。というようにですね。大切な人間は、ということは、お道の信心に縁をいただいた者は、もう、神の、特別のかわいいという手がかかっているわけですよ、いうならば。
そのなかでも、大切なものは、蔵に入れるという。「のりくら」と、その、くらに入れるという。それは、どういうことかというたら、その人の、人間の心の中にですよ、「神が、からだへ入って、神にとるのじゃ。」という。神様が、心のなかに入って、神様が占領してしまわれるのじゃ。という。これは。ね。
だから、やはり、きゅうくつになると。蔵に入れられる。というなら、たとえば、そうでしょうがね。熊谷さんなんか、朝、参ったり、夜、参ったりなさるから、もう、それだけすでに、きゅうくつになっておられるわけなんです。そして、もう、好きなもんも、食べられん、映画てん、芝居てん、(...)てん、こっちから行こうちゃあ思わんというように、いよいよ、自分を、きゅうくつな、...、それは、熊谷さんの心の中に、神様が入ってござるからなんです。
で、きゅうくつにさせござる。しかも、そのきゅうくつにさせられる、そのところにです。もちろん、なら、私どもが、ここ、畳半畳が、それこそ、「世界は、和賀心にあり」と、いったような、自由無碍な心というか、また、自由自在なおかげというものが、頂けるようになるというということ。そういうおかげをですね。私どもが、あらわしていかなきゃならん。それには、わたしどもが、その天地が、真そのものであるということ。または、実意そのものであるということ。其の事を神ながらに、わたしどもが頂くということ。
それを、教祖さまは、さまざま角度から、さまざまに教えておられるんですね。「実意丁寧神信心」「おかは 和賀心にあり」というように教えておられるんですね。
今晩は、久留米の佐田さんのところの、奥さんのお父さん、中野さん。以前、此処にやっぱりお参りになっておられましたから、樺目の時代に。亡くなられて今日が、おたちびだそうです。もう、朝からそのことが、ひっかかって、ひっかかってたまらない、しかも、ありがたいなかに、ひっかかられる。というても、やっぱり、ご主人に言われたら、それを、お義母さんに言われると、「それなら、饅頭くらいつかじゃこて、お茶ぐらいわかさじゃこて。」といわれてはまた...、だから、自分の心で一生懸命思うた、とこう言わる。
ところが、きょう、市場に買い物に行かれたら、ちょうど市場の買い物売り場に、めんたいのこがあった。そのめんたいのこが、お父さんがたいへん、生前お好きであった。それを思うただけで、足がそこから動かじゃったという。
一生懸命の思いと、そこに神様の思いと、みたまさまの思いとがですね、そこにそういう働きとなった。で、せめてそれだけでも、と、言うて、まあ。そしたら、夕方から、「きょうは、壮年部会じゃから、おれがおかげ頂こう。」と、ご主人が言われるそうですから、「そんなら、わたしもつれてって下さい。じつは、こうこう。」と言うて、おかげを頂いて、せめて、神様に其の事をお礼申しあげて頂こうというて、まあ、ちょっとしたものでも、お供えさせてもろうて、ごあいさつして頂こうというので、今、玉串あげて頂いたんですけれども。ね。
私どもがその、信心させていただいておるからこそ、そういう、真のことが、本当のことが、思われるのであります。ね、それが、行の上に、あらわされるようなお繰り合わせと、また、あらわす働きというものが、そこにあるわけです。
ですから、私どもが、どうでも、ひとつ、根本的なところで、天地がこのように真であるという、真の権化なんです、天地そのものが。ただ、その働きそものもが実意そのものなんです。そこで、教祖さまは、真ひとつでとか、実意ていねい神しんじん、というふうに教えて下さるのですから、それを、さまざまな角度から、それを頂く、そこに、実意とか、真とかいうのがですね、私どもが、信心は本心のたまをみがくとか、日々の改まりが第一とか、というその、改まったり、みがいたりしていかんと、本当の実意が出てこないのです、本当の真が出てこないのです。
そこんところからですね。私は大事におかげを頂いていけれる。同時に、わたしどもがですね。いわば、「のりくら」と言われる、その、の自覚にたたなければいけません。とくに、神様に、言うならば、なんともうしましょうかね。神さまのとくべつに、よってよって、より抜かれた、私どもだということを、思わにゃいけん。
だから、そこんところを、教えに、ある意味でしばられます。信心させてもらう者は、こうあらなければならないと、いうだけでも、いわば、きゅうくつになります。それは、ね、神が大事なものは、倉のなかに、人間でもいれておくように、神がその人の心の中にはいられる、それを、のりくらというておられます。
ですから、もう実にそこんところが、じつにありがたいと、ひとつ本気でわからしていただいてですね。いよいよ、じついのかぎりをつくさせてもらう、いわゆる、真の追求をさせてもらう、ために、いよいよ本心の玉をみがいていかねばならんということが、言えると思うんですよね。どうぞ。